今思えば、それがすべての始まりだったのかもしれない。
――その日。
彼は、歩きなれた東方司令部内の廊下を、書類を片手に歩いていた。
短い金髪の青年である。青い軍服に身を包み、くわえタバコで先を急ぐ彼の名は、ジャン・ハボック少尉――本人にあまり自覚はないが、今ひとつツイていないというか……運のない男である。
彼は自分の上司であるロイ・マスタング大佐がいる執務室へとむかっていた。今日中にサインを貰わなければならない書類があるのだ。
(この書類に大佐のサインをもらって、それから……)
頭の中で色々と次の作業を考えながら歩いていると、
「……………………っ」
微かに――なにやら話し声が聞こえた。
「?」
思わず足を止めてまわりを見回してみるが、廊下には自分以外の人間の姿は見当たらなかった。
(おいおい、まさか心霊現象とか言うなよ〜……)
一瞬イヤなことを考えてしまい、あわててぶんぶんと頭をふってその考えをふりはらう。
「ん? ちょっと待てよ?」
と、そこではじめて、自分が執務室まであと数歩。という距離にまで来ていることに気がついた。
(そういや、ちょっと前にエドがこっちに顔出してたな……大佐のとこにいるんなら、べつに話し声ぐらい聞こえてもおかしくないか)
少し前に東方司令部に顔を出した、蜂蜜色の髪に金色の瞳の少年――エドワード・エルリックの顔を思い出して、勝手に納得する。
そして、扉の前まで近づいてドアノブに手をかけようとした時。
「…………大佐」
「…………か?」
また部屋の中から話し声が聞こえた――近づいたせいだろうか――幾分さっきよりは話の内容が聞き取れた。
声から察するに、室内にはエドワードとロイの二人がいるようだが、その会話の内容は――
「…………てよ……自分じゃ…………」
「ああ…………おいで」
(はあっ!?)
ハボックは自分の耳に飛び込んできた単語――途切れ途切れなのでほとんど解読不明――に驚いて、思わず持っていた書類を取り落とした。
バサバサッ。
(わわっ、ヤバっ!)
音を立てて床に散乱した書類をあわててかき集める。
拾った書類を小脇に抱え、あらためて室内の様子をうかがうが――ハボックが立てた物音に気がつかなかったのか、ただ単に気にしていないだけなのか――部屋からロイたちが出てくることはなかった。
ほっと胸を撫で下ろし――
(それにしても何の話だったんだ? 今の?)
――妙にさっき聞こえた会話の内容が気になった。
(…………………………)
廊下に立ち尽くし、しばらく逡巡してから――辺りに誰もいないことを確認して――木製のしっかりとしたつくりの扉に、そっと耳を押し当てる。
すると、今度はもう少しはっきりと話の内容が聞き取れた。
「ちょっと待って」
「どうした? 鋼のが『してくれ』と言いったんだぞ?」
「そう、だけど……」
エドワードの――わずかに切羽詰ったような――押し止める声に続いて、ロイの――甘い……ようにも取れる――声が聞こえてくる。
(なにっ!?)
その内容に、思わず妙なことを想像してしまい、ハボックは顔を赤らめた。
(いったい何やってんだあの二人? してくれって……まさか!?)
執務室の扉に――同僚に目撃されたら変質者扱いで即刻捕まりそうな――情けない格好でへばりついて耳をそばだてながら、ハボックは困惑した。
彼の頭の中では、なにやら怪しい(大人? な)妄想が展開され始めている。
(………………)
これは……今すぐにでも、ここから立ち去ったほうが身のためなのではないだろうか? 自分の想像(妄想?)が正しければこの部屋の中では、今……ともかく。のこのこと入室して「書類にサイン下さい」なんぞと言おうものなら、消し炭確実――のような気が……
だが……
いや、しかし……
ハボックが扉の前で、一人で赤くなったり、青くなったりしている間に――ロイとエドワードの会話はさらにすすんでいた。
「ほら、鋼の」
「うーっ……」
「ここまできて、いまさら『やっぱりやめる』はないだろう?」
「でも、なんか怖い……」
「大丈夫だ。ほら」
「んー……」
「もっとこっちに」
その後、ハボックの耳に聞こえたのは、キシ……と何かがわずかに軋む音。そして、カタン、という物音――
(うわぁ〜! なんだかもう、これ以上はダメだ!!)
ここが彼の――理性の限界だった。
バンッ! と叩きつけるような勢いで乱暴に扉を開け放ち、猛然と室中に飛び込み、
「大佐! こんなとこで何やって――」
そこまで叫んで――固まった。
室内で彼が見たものは――
「………………」
執務机の上に身体をはんぶん乗り上げるようにして肘をつき、左手の手のひらをロイにむかって差し出しているエドワードと、その少年の手のひらを片手でつかみ、もう片手に毛抜きを握りしめたロイの姿――
二人とも、突然ものすごい剣幕で怒鳴り込んできたハボックの登場に驚いてきょとんとしていた。
「……どうかしたのか? ハボック少尉」
「どうしたんだ?」
「えっ、いや、その……」
……気まずい……
訝しげにたずねられて、返答につまる。
室内の光景は――ハボックが(勝手に)想像していたものとは違い――どこからどう見ても『手に刺さった棘を抜いている』ようにしか見えなかった。
勝手にヘンな妄想をした挙句、執務室に乱入しました――なんて、口が裂けても言えない……
「…………それじゃ、オレはこれで!」
ぎこちなくそう言ってそそくさと部屋から出ると、ハボックは静かに扉を閉めた。
そして――書類を握り締めると、わき目もふらずにその場から逃げ出した。
「なんだ今の?」
「さあ?」
執務室に取り残された形になったエドワードとロイは、ハボックの不可解で怪しい行動に不思議そうに首をひねった。
ハボックが書類のことを思い出したのは――それから6時間も経った後のことだった。
end