正しい(?)大人の責任の取り方

 だがしゃぁぁん!!
 床に思い切り何かをぶつけたような、なにやらやたらとイタそうな音が食堂中に響いた。
 軍の建物の中にある食堂の、奥のほうにあるテーブルの一つから聞こえたその音に、その場にいた全員がぎょっとして音のしたほうをふり返った。
 ざわざわ……
 ふりむいた人々の視線の先には、食堂の椅子に座ったままの姿勢で、その椅子ごと真横にひっくりコケている蜂蜜色の髪を三つ編みにした少年の姿があった。
 一体何があったのか、いまだに少年は椅子とともに床の上に転がったまま起き上がってこない。
 そしてもう一人。その少年がついていたテーブルの向かい側に座っていた、青い軍服姿の青年が咥えタバコのまま、ぎょっとしてコケた少年を見ていた。
 青年――ジャン・ハボックは、少年の予想外のリアクションの大きさにしばらく固まっていたが、一体何ごとがおこったのかと、食堂中の視線が自分達に集まっていることに気がついて、気恥ずかしさにわずかに赤面しながら、小声でいまだに床の上にひっくりコケたままの少年に声をかけた。
「おいエド、さっさと起きろよ。恥ずかしい」
 エドと呼ばれた少年――エドワード・エルリックは、テーブルに手をついてよろよろと身をおこすと、自分と一緒に倒れていた椅子をおこして、そこに座りなおした。
 興味津々といった感じで、いまだにこちらを注視している人々をちらりと見遣って――ごほん、とわざとらしく咳払いをすると、ギャラリーたちは慌てて視線をそらせた。
 もう誰も自分達の方を見ていないことを確認してから、エドワードはハボックのほうに向き直るとおもむろに口を開いた。
「それで?」
「へっ?」
 話の流れについていけず、きょとんと聞き返してくるハボックに、エドワードはもう一度強い口調で聞いてきた。
「だから、さっきの話をもっと詳しく教えてくれって言ってるの!」


 執務室の奥に置かれた机に座り、大量の書類と格闘しているのは、この東方司令部で大佐の地位を任されているロイ・マスタング。
「……っと」
 彼は、最後の書類にサインを入れ終わり机の上にペンを置くとうーんと大きくのびをした。
 出来上がった書類をひとまとめにして机の脇にどける。と、さっき部下のホークアイが置いていってくれたコーヒーが目に入った。
 ずいぶんと冷めてしまったコーヒーを片手に、ロイは椅子から立ち上がって窓辺に足をむけた。空いているほうの手で窓を開けると、吹き込んできたやわらかな風が、ロイの黒髪を揺らした。
 外は晴天。
 真昼の日差しの中、青い空にぽっかりと浮かんだ白い雲がゆっくりと流れていく。それを見るともなしに見ながら、ロイは冷めてしまったコーヒーを一口すすった。
「……いい天気だな」
 のんびりとつぶやく。
 ――と、背後から突然。
「なごんでる場合か!!」
 すぱぁん!
 ものすごく聞き覚えのある声とともに、比較的大きな衝撃がロイの後頭部を襲った。
「は、鋼の!?」
 手に持ったままのコーヒーをこぼしそうになりながらも、慌てて声のしたほうを振り返ると、一体いつの間に部屋に入ってきたのか、エドワードがスリッパ片手に――先ほどの衝撃はエドワードがこれでロイの後頭部をはりたおしたせいらしい――立っていた。
「鋼の、部屋に入ってくるなりいきなり何なんだ?」
 開いているほうの手で、先ほどスリッパで叩かれた場所をさすりながら尋ねると、
「何なんだも何も、これは一体どういうことだ!」
 エドワードは手に持っていたスリッパを適当にそこいらに放り捨てると、着ていた赤いコートのポケットから折りたたまれた一枚の紙を取り出してひろげ、ロイの眼前に突きつけた。
「?」
 ロイはしげしげと、目の前の紙をながめてから、ああ、と納得したようにつぶやくと、逆にエドワードに聞き返してきた。
「それで?」
「それでって……大佐と勝負するとは言ったけど、賭けのネタになるとは一言も言ってないぞ!」
 エドワードは手に持った紙――ハボックからもらった賭けの金額が書かれたやつだ――をばしばしと叩きながら大声で怒鳴り散らした。
「こんな、人を見せ物みたいに――」
「見せ物だよ」
 まだまだ続きそうなエドワードの文句をさえぎるように、ロイ。
「へっ?」
 きっぱりと言い切られたそのセリフに、エドワードは思わず間の抜けた声を上げた。視線で問いかけるとロイは淡々と、
「所詮、ただのイベントだ。そう鋼のが腹を立てるほどのことでもない」
 ロイの答えに、エドワードは呻くように言った。
「……軍の人間って、実はけっこうヒマなのか?」
 その呟きに、ロイは苦笑しただけで何も答えてはこなかった。


 ――試合当日。
 大勢のギャラリーが見守るなかで始まった、ロイとエドワードの試合は――


「…………負けた」
 ポツリともらしたエドワードの小さな呟きは、白い部屋の空気に吸い込まれて消えていった。
 天井も壁も白い、殺風景な部屋。
 そこは、病院の中の一室だった。
 病院特有の匂いのする――おそらく消毒液かなにかの匂いなのだろう――部屋の中。同じように病院特有の匂いのするシーツのかかったベッドの上に、エドワードは仰向けに寝転んでぼんやりと天井を見上げていた。
 エドワードの付き添いできていた弟のアルフォンスはベッドのそばに置いてある椅子に腰をかけると、包帯と絆創膏だらけの兄がもらしたつぶやきを、きっぱり無視することにきめこんだ。
 しばらくして……
 コンコン。
 病室の扉をノックする音。
「どうぞ」
 アルフォンスが声をかけると、静かに開いた扉の隙間から室内に入ってきたのは、白いバラの花束だった。続いて、見慣れた黒髪と青い軍の制服――
「大佐!?」
 部屋に入ってきた人物に気がついて、エドワードは寝ていたベッドから半身を起こした。
「具合はどうだい、鋼の」
 その問いには答えず、エドワードはロイの手の中にある白いバラの花束を凝視していた。
「何で大佐が花束なんか……」
「見舞いといえば花束だろう?」
 近くにいたアルフォンスに花束を手渡すと、ベッドの脇へと近寄ってくる。
 そのロイにさっきまで自分が座っていた椅子を勧めると、アルフォンスは急に白々しく、
「そうだ。ボク花びん借りてくるよ」
 そう言うと、花束を手にそそくさと病室を出て行ってしまった。
「? 急に何なんだアルのやつ?」
 弟の突然の行動にきょとんとなる。
 ロイは、アルフォンスが勧めてくれた椅子に腰掛けながら、
「おそらく、私に気をつかってくれたのだろう」
「なんで?」
 さらに不思議そうに首を傾げるエドワードに、ロイは苦笑した。
「怪我はまだ痛むかい? 鋼の」
 怪我をしていないほうの手をそっと取りつつそう尋ねると、エドワードはぷるぷると首を横にふった。
「ううん。へーき。――それより大佐に手加減されたことのほうがムカつく!」
 握られていた手を軽く振り払うようにして取り戻すと、エドワードは半眼でロイを睨みつけた。その非難の視線にロイはあさってのほうを向いて、ぼそり。
「……気付かれたか」
「あのなぁ〜……試合なんだから手加減すんなっての! だいたい――」
 怒りのためか、徐々にボリュームの上がってきたエドワードのセリフを手で制すると、ロイはじっと真剣な眼差しでエドワードの金色の瞳を見つめた。
「……な、なに?」
 妙に真剣な面持ちのロイに気圧されるように、エドワードは思わず口をつぐむ。
 黙って彼の言葉を待っていると、ロイが静かに口を開いた。
「鋼の。私だってこんな試合などしたくはなかったんだよ、君に怪我までさせて……」
「大佐……」
 後悔をにじませた声でそう言いってうつむくロイ。
「大丈夫だって、これぐらいの怪我なんてどうってことないよ」
 エドワードは明るくそう言うと、ぶんぶんと元気に両腕をふって見せた。
「……いいや。私がエドワードに怪我をさせたことは事実だ。ちゃんと責任は取ろう!!」
 がばっと急に顔を上げたかと思うと、ロイはこぶしを握り締めてそう断言してきた。
「せ、責任って?」
 意味がわからず、ぽかんとロイの顔を見上げているエドワードを尻目に、ロイはなにやらごそごそと軍服の内ポケットを探ると、きれいに折りたたまれた一枚の紙を取り出してエドワードによく見えるように広げてみせた。
 ――それを見た瞬間。
 びしっ!
 ベッドの上に座ったまま、エドワードは思わず凍りついた。
 その紙には『婚姻届』と書かれてあった。――しかも、すでに必要事項が記入済みで、あとはエドワードがサインを入れるだけ、の状態になっていたりした――
「エドワードを傷モノにした責任を取って、私が一生――」
 すぱぁん!
 何の前触れもなく、ロイの頭に比較的大きな衝撃が走った。
 頭上から振り下ろされた『何か』に思いっ切り頭をはたかれ、ロイの言葉が途切れる。
 顔を上げてみると、一体どこから取り出したのか、エドワードがスリッパ片手に――先ほどの衝撃はこれではたかれたものらしい――ベッドの上に仁王立ちになっていた。
「くだらない冗談言ってると、叩くぞ!」
 じろり、と見下ろすようにロイを睨みつける。
「もう叩いたくせに……」
 ベッドの上に立ち上がったエドワードを上目遣いに見ながら、ロイはたたかれた頭を『婚姻届』を持っている方とは反対の手でなでた。
「それに、冗談ではなく私は真面目に言っているのだ!」
「なお悪いわ!!」
 すぱぁん!
 再び、ロイの頭頂部めがけてスリッパが振り下ろされた。
「鋼の、少しは私の話を……」
「うるさいっ!!」
 すぱぁん!!


 病院の廊下にまで響き渡ったスリッパの音は、花瓶に花を活けて病室に戻ってきたアルフォンスが止めに入るまで延々と続いたと言う――


end