天使は空からふってくる
〜最終話〜

「えっ!? ちょっと待てって、そんな急に言われても!」
 バルコニーに一人立ち尽くしたエドワードの叫びは、むなしく夜風にかき消されていった。

◆◆◆


 ――その日の夜。
「ロイ! その……」
 リビングから出てきたロイを呼び止めたエドワードの、いつもとは違う雰囲気にロイは思わず足を止めた。
「どうした?」
「……ちょっと話があるんだ」
「?」
 しかし、自分から呼び止めておきながらいっこうに口を開かない少年に、ロイが視線で問うと、エドワードは俯いて床に視線を落としたままで、ぽつりぽりつと話を切りだした。
「アルが……弟が迎えに来るんだ」
 その言葉に、ロイの黒い瞳がわずかに揺れた。
「そうか……帰るのか。……その迎えというのはいつ来るんだい?」
「……明日の朝」
 俯いたまま、かすれた声でそれだけを告げる。その急な話にロイは驚いた。
「そんなに急に!?」
「ロイ! オレ……オレは……」
 ばっと顔を上げると、エドワードは何か言いたげな瞳でロイを見つめる。しかし、うまく言葉が出てこない。
「朝が早いのなら、もう休んだほうがいい」
「……ロイ」
 ロイはくるりとエドワードに背中を向けると、
「おやすみ、エド」
 どこか抑えたような声でそれだけを言うと、さっさと自室へと入っていってしまった。
「………………」
 その背中を見送りながら、エドワードはその場に立ち尽くして唇を噛み締めた。


 自室に入り扉を閉めると、ロイは明かりもつけずにまっすぐベッドへとむかった。
 ベッドの縁に腰掛けて自分の膝の上に肘をつくと、祈るように両手を組んでそこに自分の額を強く押しあてて、辛そうに呟く。
「そうか……とうとうエドは帰ってしまうのか……また独りになるのだな、私は」
 カーテンの閉められていない窓から見えるのは、満月よりわずかに欠けた丸い月。
 窓ガラスの向こうから差し込んでくる月明かりの中。
 まるでそこだけ時が止まったかのように、ロイはその姿勢のままでじっと窓の外を見つめ続けていた。


 とぼとぼと自室に戻ってきたエドワードは、仕方なくベッドにもぐり込んだ。しかし、まったく寝付けない。
 何度も寝返りを打ち、目を閉じるが、色々なことがぐるぐると頭の中を回り気持ちの整理ができないでいた。
「……ロイ」
 ぽつりと、唇からこぼれたその切なげな声は――しんと静まり返った部屋の空気に溶けて消えていった。


 ――翌日の早朝。
 街は濃い霧に包まれていた。
 灰色の雲が厚く空にたれこめ、まるで街が丸ごと雲の中に沈んでしまったような、そんな朝だった。
 どんよりとしたその空模様は、まるで今の自分の気持ち表しているかのようで、ロイはますます陰鬱な気分になってきた。
 結局――ロイは一睡もできずに朝をむかえた。
(たしか……朝、迎えが来るといっていたな)
 ロイは重い足取りで二階へと続く階段を上り、バルコニーへと足を向ける。
 あの日。エドワードがふってきたあの場所へ――
「!」
 そこにはすでに先客が――エドワードがいた。
 丈の短い黒い上着と、黒いズボンの上に、ロイがプレゼントしたあの赤いコートを着てバルコニーの手すりにもたれるようにして、曇った灰色の空を見上げていた。
「っ……」
 ロイは口を開きかけて――やめた。
 今、エドワードに声をかけてしまえば、引き止めてしまいそうで――どこにも行くなと言ってしまいそうで――怖かった。それほどまでに自分がエドワードに執着しているのだと、あらためて思い知らされた。
 ためらいながらもロイは、バルコニーへと一歩踏み出した、その時。エドワードがロイの存在に気がついたのか、こちらを振り返った――二人の目が会う。
「っ、」
「ぁ……」
 こちらを見つめ返してくるエドワードの金色の瞳が、一瞬揺れたように見えたのは、自分の気のせいだろうか?
 ロイは黙ったまま、その瞳を見つめ返した。
 長いようで、それでいて短い沈黙の後、エドワードが何か言おうとして口を開いた、
「あの、ロイ……」
 刹那――
 ひらり。
 あの日と同じように、どこからか白い羽根が一枚ふってきた。
『あっ!』
 エドワードとロイが同時に声を上げて空を見上げる。
 ふっと頭上から影が落ちてきた――そう感じた次の瞬間。背中に白い翼の生えた一人の天使が白い服の裾をはためかせながら、すっと静かにバルコニーへと降り立った。
「……アル」
 エドワードが呆然と呟くのが聞こえた。
 ロイの目の前に立っている、金色の瞳にややくすんだ金色の短い髪の天使が、エドワードの言っていた『弟』なのだろう。エドワードにどこか似た面差しの――アルと呼ばれた彼の弟は、ロイに気がつくと礼儀正しく丁寧に頭を下げた。
「兄さんが色々お世話になりました」
「ああ……」
 しかし、今のロイにはそう返すだけで精一杯だった。その態度に、アルは別段気にしたふうもなくエドワードのほうに向き直ると、
「じゃあ、行こうか兄さん」
 そういって右手をエドワードの前に差し出した。
「……ッ!」
 エドワードは差し出されたアルの手を振り払うと、少年達の少し後ろで事のなりゆきを見守っていたロイの側に駆け寄って――そのまま身体ごとぶつかる勢いでロイに抱きついた。
「エド!?」
 突然の展開にさすがにロイも驚いた声を上げる。
 俯いて、ロイのシャツの胸元をぎゅっと握りしめてしがみついてくるエドワードの肩が小刻みに震えている――その震える肩にそっと手を置くとびくっ、とエドワードの身体が震えたのがわかった。
 おずおずと顔を上げたエドワードの涙に濡れた金色の瞳に、ロイの黒い瞳が映りこんでいるのが見える。
「オレ……っく……オレ、ロイと離れたくない……」
「エド……」
 しゃくりあげながら、そう訴えるエドワードの顔を凝視して、ロイもまた動けなくなっていた。
「……私だってエドと離れたくはない。しかし……」
 絞り出すような声でそこまで言い――そこでいったん言葉を切ると、ロイは困ったような顔でこちらを見ているアルをちらりと見た。
「………………」
 そのロイの視線の先を目で追ったエドワードは、しばらく俯いてじっと自分のつま先を見つめていたが――やがて決意を秘めた眼差しで、ロイの黒い瞳を見上げた。
「オレさ、絶対戻ってくるから……だから、それまで待っててよ!」
 そのエドワードの言葉にロイは一瞬、目を大きく見開いた――そしてすぐに、ふわりと笑って頷いた。
「ああ。ずっと待っているよ」
 ロイがしっかりと頷いてくれたのを見て、エドワードは素早く伸び上がってロイの頬にキスをするとすっと身体をはなした。
「約束だからな!」
「ああ」
「……兄さん」
 アルの側まで戻ると、エドワードは躊躇いがちに声をかけてくる弟の右手をしっかりと握った。
「じゃあちょっとだけ、お別れ」
 ロイにむかってにっと笑って見せる。
「ああ……行っておいで」
「……それでは失礼します」
 ロイにむかってぺこりと頭を下げたアルとともに、片翼の天使は灰色の空へと舞い上がった。
「約束、ちゃんと守れよな」
 そう言い残して、エドワードの姿はロイの視界から消えた。
「………………」
 ロイは、片翼の天使が飛び去っていった空を、いつまでも見上げていた。
 いつまでも――


 ――そして、あの日から一年。
 書斎の机の上に置かれたカレンダーをなにげなく見て、ロイはそのことを思い出した。
 あの蜂蜜色の髪と金色の瞳を持つ片翼の天使は今ごろどうしているだろうか?
 彼がこの家にいた時のことが、まるで昨日のことのように思い出される……
 ふと、書き物の手が止まってしまっていることに苦笑した。窓から外を見れば、夜が明けた外の景色はいつの間にか霧で白く霞んで見えた。
「やれやれ。徹夜をしてしまったな……」
 ロイは机の上にペンを置くと、コーヒーを入れるために書斎を出てキッチンへと足を向けた。
 コンコン。
 玄関の扉がノックされる音に、ロイは訝しげに眉を寄せる。
「こんな朝早くに、一体誰だ?」
 玄関の扉を開けて、ロイは自分の目を疑った。
「!?」
 白くたちこめる霧の中。彼が――エドワードが立っていたのだ。
 あの時と同じ、丈の短い黒い上着と黒いズボンの上に、ロイがプレゼントしたあの赤いコートを着て。
 しかし、そのエドワードの背中にあったはずの右側の片翼は――なくなっていた。
「エド……」
 ほうけたようにその名前を呟いて、思わず立ち尽くすロイにむかって、エドワードはテレたように笑うとちょっと胸を張って言った。
「ただいまロイ。ちゃんと約束どおり戻ってきたぜ」
「ああ……お帰りエド」
 ロイは自分のもとに戻ってきた――もう天使ではなくなってしまった少年を、しっかりと抱きしめた。


end